とちぎのひとー1那須与一

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那須与一

(なすのよいち)

1.那須与一(なすのよいち)とはどのような人物か
那須与一

平安末期の武将で、下野国那須(しもつけのくになす)に勢力をもっていた那須氏(なすし)の 一人ですが、 与一に関する確かな史料はほとんどありません。

そのため、与一については軍記物(ぐんきもの)である『平家物語(へいけものがたり)』や『源平盛衰記(げんぺいせいすいき)』によって伝えられている部分が大きいです。

『平家物語・十一巻』には、「那須与一」の段があり、文治(ぶんじ)元年(1185年)の屋島の戦い(やしまのたたかい)で、源氏の代表として、波にゆれる船の上に掲げられた平氏の守り神である厳島神社(いつくしまじんじゃ)の扇の的を射抜いたことで有名です。

与一の活躍や人柄は「平家物語」や「源平盛衰記」に名場面として描かれています。

2.「平家物語」(へいけものがたり)に見られる与一の活躍 -(屋島の戦い)(やしまのたたかい)-

平家の陣営から一そうの小舟が近づいてきました。
舟の舳先(へさき)には、真っ赤な地に金色の日の丸を染めた扇を挟んだ竿が立てられています。
見ると、美しく着飾った女性が手を振って源氏を手招きしています。「この扇を射てみよ。」というしぐさです。
平氏にとっては、源氏が扇を射落とすことができなければ、「勝ち運は我にあり」という占いなのです。

これを見た源氏の大将源義経(みなもとのよしつね)は、与一に扇を射るように命じました。
与一は源氏の武士の中で、弓の名人といわれるほどの技を持っていますが、敵味方の注目する中で、波に揺れ動く小舟の上にある扇を射落とすことは大変にむずかしいことです。もし失敗すれば平氏の軍勢を勢いづかせることになってしまいます。

与一は一度は辞退したものの、大将の命令であれば弓を引かなければなりません。
もし射落とせなかったときは、その場で自害する覚悟をきめて、馬を海へ進めていきました。
心を静め、故郷下野の神仏(しもつけのしんぶつ)に念じつつ矢を放つと、ねらいはたがわず扇は空に舞い上がり、春風にもまれて、やがて海面に落ちました。
赤色の扇は夕日のように輝いて、白波の間をただよっています。
この光景を見ていた敵味方ともに深く感動し、船上の平氏は船べりをたたき、島にいた源氏も鞍(くら)をたたいてほめたたえたといいます。
平氏が占いに期待していたこととは逆の結果になってしまったので、軍勢の気力は一気におとろえ、やがて壇ノ浦の戦い(だんのうらのたたかい)にも敗れ、平氏は滅亡しました。

※ 平家物語を読んで、与一の活躍をさらにくわしく調べてみましょう。 

3.与一の名前はどんな由来があるのか

与一は、十あまり一という意味があり、十一男をしめす通称です。

4.与一の最期について

与一の最期については、文治(ぶんじ)5年(1189年)8月8日に京都で死去し、伏見(ふしみ)の即成院(そくせいいん)に葬られたという記述那須系図(なすけいず)と、建久(けんきゅう)元年(1190年)10月に源頼朝(みなもとのよりとも)に従って京都に向かう途中、山城国(やましろのくに)伏見(ふしみ)で急死し、即成院に葬られたという記述〔『続郡書類従(ぞくぐんしょるいじゅう)』〕があります。

死去した年齢についても確実な史料が残っていないため、明確なことはわかっていませんが、前述の屋島の戦い(やしまのたたかい)の時に17歳という記述(『群書類従』)もあり、20歳代前半から半ばで若くして死去したのではないかと推定されています。

5.与一の墓

与一は死後、即成院(そくせいいん)に葬られましたが、分骨され、那珂川町(なかがわまち)恩田(おんだ)の地にも葬られたとされる記述〔『那須記(なすき)』〕があります。
現在、この場所は御霊神社(ごりょうじんじゃ)〔江戸時代は野州恩田社(やしゅうおんだしゃ)〕となっています。
また、与一の墓石は大田原市(おおたわらし)福原(ふくわら)の玄性寺(げんしょうじ)にもあり、那須郡(なすぐん)那珂川町(なかがわまち)片平(かたひら)の常円寺(じょうえんじ)には与一の位牌(いはい)があります。

与一の墓や位牌と伝えられるもの、与一にまつわる伝承は、広く、県外にもみることができます。

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