とちぎのひとー2勝道上人


勝道上人
(しょうどうしょうにん)
1.勝道上人(しょうどうしょうにん)とはどのような人物か
下野(しもつけ)に生まれ下野に骨を埋めた勝道上人は、日本における山岳仏教(さんがくぶっきょう)の先がけであったといわれ、日光1200年の信仰と文化の原点を築いた僧です。


2.勝道上人の略年表
勝道上人の略年表
| 天平(てんぴょう)7年 (735年) | 芳賀郡(はがぐん)高岡(たかおか)〔現在の真岡市(もおかし)〕の下野国府(しもつけこくふ)の役人の家に生まれます。 |
| 天平宝字(てんぴょうほうじ) 5年(761年) | 僧になる勉強をするため、下野薬師寺(しもつけやくしじ)に入ります。 |
| 天平神護(てんぴょうじんご) 2年(766年) | 二荒山(ふたらさん)を開く根拠地として四本竜寺(しほんりゅうじ)を建てます。 |
| 延暦(えんりゃく)元年 (782年) | 3度目の試みで男体山(なんたいさん)(二荒山)の頂上をきわめることができました。 |
| 延暦3年 (784年) | 現在の中禅寺湖畔(ちゅうぜんじこはん)に神宮寺(じんぐうじ)(現在の中禅寺)を開きます。 |
| 弘仁(こうにん)7年 (816年) | 三社権現(さんしゃごんげん)の社(やしろ)を建立(こんりゅう)します。 |
| 弘仁8年 (817年) | 82歳で死亡します。 |
3.勝道上人は、どのようにして僧になったのか
下野の生んだ名僧、勝道上人は天平(てんぴょう)7年(735年)、現在の真岡市(もおかし)南高岡(みなみたかおか)で生まれたと伝えられています。
父は下野国府(しもつけこくふ)の役人、若田高藤(わかたたかふじ)で、母は国府に神主としてつとめていた吉田主典(よしださかん)の娘、明寿(みょうじゅ)と言われています。
母の実家で誕生した上人は、幼名を藤糸丸(ふじいとまる)といいました。
この誕生の地にはのちに仏生寺(ぶっしょうじ)が建てられました。
仏生寺は、八溝山地(やみぞさんち)の西斜面にあたる錫杖ヶ峰(しゃくじょうがみね)のふもとにあり、山門の両脇には、樹齢約700年の大ケヤキがそびえています。
勝道上人は、幼い頃から神童と呼ばれ、若い頃には、栃木市(とちぎし)北西の出流山(いずるさん)の岩くつに入り、3年間、仏の道を修行しました。
その後、さらに3年間、山深くわけいって苦行を重ねた後、下野薬師寺(しもつけやくしじ)に行き、鑑真和上(がんじんわじょう)の弟子に仏教の教えを受け、僧の資格をさずかりました。
4.勝道上人は、どのようにして日光を開山したのか
31歳になった上人は、下野薬師寺(しもつけやくしじ)を出て、大剣ヶ峰(だいけんがみね)〔横根山(よこねやま)〕に登り、そこでの1年間の修行の後、北方にそびえる男体山(なんたいさん)をめざし、精進岳(しょうじんだけ)にたどりつきました。
下山して大谷川(だいやがわ)を渡り、対岸の二荒山(ふたらさん)ろく〔現在の日光山(にっこうさん)内〕に行こうとしましたが、谷深く流れの激しいこの川を渡ることができませんでした。
このとき、神仏に祈り、神の助けで川を渡ったという伝説があります。その伝説の橋が山菅橋(やますげばし)で、今の神橋(しんきょう)です。
大谷川を渡った上人は、そこに、四本竜寺(しほんりゅうじ)を建てました。
その寺が、日光山で最も古い寺で輪王寺(りんのうじ)の起こりであると言われています。
その後、上人は山の霊の力を身に付け、自分の信仰を完全なものにしようと考え、僧としてだれも登ったことのない男体山の登頂をめざしましたが、原始林にはばまれ、失敗に終わりました。
782年の春、上人は、3度目の登頂をめざしました。
神々に祈り、決死の覚悟で山頂をめざした上人は、とうとう男体山の頂上に登りつくことができたと伝えられています。
上人は、その後、中禅寺湖(ちゅうぜんじこ)のほとりに、神宮寺(じんぐうじ)を建てて、自作の「立木観音(たちきかんのん)」を本尊(ほんぞん)にまつったり、二荒山神社(ふたらさんじんじゃ)を建てたりしました。
今日の日光の基礎をつくった勝道上人は、弘仁(こうにん)8年(817年)に82歳で亡くなったと伝えられていますが、今でも日光開山の祖として、人々に尊ばれています。









